会員からの意見・レポート

1.戯曲公募レポート

                 東松山 小さな街の大きな挑戦

 

 私が関わる東松山文化まちづくり公社は、来年度の市民文化センター指定管理奪還に向けて、自主主催事業に取り組み始めた。今年1月には芸術家たちの凱旋シリーズとして、東松山出身のメゾソプラノ歌手林美智子さんのリサイタルを開催。心に染み入る歌声に合わせ、地元の合唱団との素晴らしい共演が実現できた。

 今年度早々、東松山戯曲賞「平成家族物語」を創設、発表した。戯曲を全国から募集する。三題噺方式で、「大都市周辺の街」「家族」「希望」をテーマにした。優秀作を一年目朗読、二年目を演劇、三年目を音楽劇と3年がかりの大プロジェクトである。自治体でのこのような事業は、尼崎市の近松賞以外は政令市や道県などにある程度。人口9万人の東松山市の大きな挑戦である。単独ではできないので、埼玉県が管理運営する彩の国さいたま芸術劇場から全面的な協力をいただく。もちろん、制作過程から上演まで、多くの裏方から劇への出演まで多数の近隣市民の参画を考えている。

 昭和から平成にかけて、大都市周辺の街では多くの都心通勤者が家を求め、高金利の住宅ローンに追われ、遠距離通勤で身体クタクタになる生活を送っていた。今は都会から戻ってきた年寄りの群れ。それも都会の甘い生活(戻った街には無い)を味わってきている。病床や医師の不足、文化芸術に触れる場など自然以外のあらゆる面で不満の種がある。そして出ていった子どもたちは不便だと戻ってこない。平成の次、新元号の時代の家族はどんな姿か。平成元年に19.5%だった単独世帯率が28年には26.9%に上昇。さらに上昇していく。一人で住むと家族とは言わない。その家族が持っていた育児、教育、扶助、介護等あらゆる機能が社会の側に要請されている。

 希望、これが一番難しい。私が好きだった作家、井上ひさしさんの「組曲虐殺」の中で小林多喜二にこんなセリフがある。『絶望するには、いい人が多すぎる。希望を持つには、悪い奴が多すぎる。なにか綱のようなものを担いで、絶望から希望へ橋渡しをする人がいないものだろうか・・・いや、いないことはない。』

 演劇は時代を映す鏡である、と言わせたのはシェイクスピア。故蜷川幸雄さんは、今の人たちは他人との距離感がつかめていない、だから群集劇が成立しないと書かかれていた。平成とは、人と人との会話が絵文字入りの文章になった時代である。コミュニケーション力回復に文化芸術の力、特に演劇などの舞台芸術が役立つと考えている。

 8月までにどのような作品が来るか楽しみである。また、井上ひさしさんの言葉になるが、「むずかしいことをやさしく、やさしいことをふかく、ふかいことをおもしろく、おもしろいことをまじめに、まじめなことをゆかいに、そしてゆかいなことはあくまでゆかいに」そんな戯曲を待っているのである。

(2018年5月28日 元埼玉県芸術文化振興財団事業本部長 石田義明)

 

2.文化政策シンポジウムレポート

 

 『劇場って何?ということですが、もちろん舞台芸術の上演を通じてですが、「人々の元気と地域の賑い」のためにその一翼を担うものと確信して取り組んできています。プロによるプロの経営、当たり前のことですが、ひとりよがりの芸術家や取り巻きの自称専門家の自己満足のためのものでは絶対ない。そのために「ソフト・ハード一体」で立ち上げ運営し、多彩な舞台芸術の魅力を豊富なメニューで、選択肢を拡大し幅広い多くのお客様に届けたいということです。「劇場法」では新しい「広場」の記載とか都市部への集中、東京一極集中の弊害が指摘され、専門家の必要性の中で初めて指針としてですが管理運営、経営の専門家という新しい要素が盛り込まれました。兵庫県立芸術文化センター(芸文センター)の取り組みは、こういう新しい要素の先駆け劇場ではないかと思っています。・・・・

 芸文センターを「パブリックシアター」と位置付けて3つの要素を持つことにしました。一つは本拠地劇場、そして芸術監督・専門家、専属創造楽団、これらの一体効果で、これは大変大きいものがあります。それから、約6万人の芸文センター会員のことですが、「芸文センター市民」と私は呼んでおり、この方々がリピーターとなりチケットを買って劇場を支え、新たな観客を生むベースになっています。一番の誇りは、この「日本一のお客様」です。もう一つの自慢は、「地域協働」、例えばオペラ前夜祭。佐渡芸術監督もステージで法被を着て踊って参加するなどオペラは地域の夏祭りとしていろいろなイベントが街中で展開され、芸文センターのバースデイは地域でお祝いイベント、冬のイルミネーションも街ぐるみで行っています。・・・』

 

(2017/12/17  東京大学本郷キャンパスにおける「文化政策の実践における新しい担い手」をテーマとしたシンポジウムにおける発言から 兵庫県立芸術文化センター副館長 藤村順一)

 

3.文化講演レポート『特別フォーラム:「クリエイティブなEU」に向けてー文化創造の新たな取り組み』(2016.5.18.14:30~16:30 EU駐日代表部)

 EUでは、新文化産業振興策(クリエイティブ・ヨーロッパ)を推進しているが、今回のフォーラムにおいては,今回の伊勢志摩サミットで来日したクリエイティブ・ヨーロッパプログラムのアジア地区ディレクターのマルティーヌ・ライシャス(Martine Reicherts)氏がEUにおける文化振興の現状について、政策研究大学院大学文化政策プログラムディレクター/教授の垣垣内恵美子氏が 日本のクリエイティブ産業の現状について各々講演した。  ライシャス氏によれば、EUにおいては、文化・クリエイティブ産業の位置はGDPの4.5%、域内雇用の4%を占め、今後もEUが推進している包括的な資金助成策を中心とした各種文化プログラム等により更なる発展が予測されるとのことで、具体例として、マルセーユが欧州文化首都に指定されて観光客が25%増加した事例やEU文化遺産賞を受賞したヴェニスの活動事例などが紹介された。氏は、文化・クリエイティブ産業にはグローバルな発信が不可欠であるが、単なる市場シェアの拡大は「文化の均質化」を招くことになるので、EUは多様性の保護による活性化を目指すとのこと。それぞれ独自性を持った文化資源を発信し、共有することで国際競争力も強化されるという。 垣内氏からは、日本の文化・クリエイティブ産業、特に映画などのコンテンツ産業の現状及びクール・ジャパンなど国の振興策の内容等について解説があった。氏によれば、総合芸術産業としての映画産業は、いわゆるコンテンツ産業の中心として国も大きな期待を示しており、ピークであった1950年代代以降の低迷も近年邦画中心に盛り返しを見せているが、その一方で、商業主義による均質化が進んでおり、コアの製作段階における政策的助成が少ないことなど課題も多く、コンピューター産業のような伸びが見込めない現状があるとのことだった。 文化政策の環境としてはEUの方が格段に優れているように感じたが、文化予算の伸びが少ないことや、市民の声が政治に届きにくいことなど、文化と政治との関係などは、日欧共通の課題があることが分かった。また、欧州における価値観の多様性が進んでいる事例として、車社会から脱却を目指す風潮が進み、運転免許証を持たない若者が増えているという話、大きな政治課題となっている難民・移民対策にも文化政策が重視されている話、映画などの制作資金の調達にクラウド・ファンディングが多用されていることなど興味深い話が多かった。(5月19日、澤井安勇)

 

4.公演レポート『沼尻竜典オペラ指揮者セミナー~「フィガロの結婚」指揮法~』(2015.8.10~12 びわ湖ホール)  去る8月10日(月)から12日(水)の3日間、びわ湖ホール大ホールで『沼尻竜典オペラ指揮者セミナー~「フィガロの結婚」指揮法~』が開催された。びわ湖ホール芸術監督である指揮者沼尻竜典が6人の受講者に指揮を教える。楽器や歌のマスタークラスは珍しくないが、オーケストラを加えての指揮者セミナーとなると大がかりになる。ましてやオペラはそこに歌手(ソリストと合唱)が加わる。今回はびわ湖ホールにとっても初めての試みで、その経費に「若杉・長野音楽基金」が活用されている。これはびわ湖ホールの初代芸術監督であった若杉弘氏が2009年に、奥様の声楽家長野羊奈子さんが昨年に亡くなり、びわ湖ホールに遺贈された基金である。お二人のご遺志にふさわしい使途と言えるだろう。受講者は30名から選ばれた6名。受講料は無料で、国内交通費・宿泊費も出る。全員日本人だが、うち2名は海外(グラーツとベルリン)からの参加で、女性は1名である。オーケストラ(大阪交響楽団)が登場するのは2日目からで、1日目は2台のピアノで行われる。オペラ全曲をとりあげるわけにはいかないので、序曲のほか、アリア、レチタチーヴォ付きのアリア、二重唱、三重唱、合唱曲、それに大がかりなフィナーレと色々な場合に対応できるようナンバーが選ばれている(序曲を含め9曲)。初日は2台のピアノで概略をこなし、2日目はオーケストラでやってみる。受講生は一人ずつ順次指揮をするわけだが、同じ曲を何人もの受講生が振る場合もあれば、一人ずつで進む場合もある。オーケストラはピットの中ではなく、舞台上に上がり、歌手たち(びわ湖ホール声楽アンサンブル)は舞台奥、かなり高い位置に並ぶ。ピットと舞台との高低差に対応した高さなのだろう。そしてホリゾントには2枚の大きなスクリーンが並ぶ。右のスクリーンには指揮者の正面の姿が、左は指揮者を横から見た姿が映る。これは、ピットの中ではコンサートの場合と異なり、左端に木管楽器が、右端に金管楽器とティンパニが並ぶ横長配置になるので、指揮者は横から見られた姿を意識する必要があるからと沼尻氏は言う。そして最終日はゲネプロ(筆者は都合で出席出来ず)と本番(成果発表)である。誰がどの曲を振るかは、2日目が終わった時点で沼尻氏が決定している。さて、受講者に対する指導やコメントは、足の位置や首の角度といった姿勢に関すること、指揮棒を使う場合の手首や肘の使い方(指揮棒の先手首あるいは肘が動くと奏者への指示が明確でなくなる)といった基本的なことから、劇的表現(この場面では何が重要か)にわたる多岐なものだったが、沼尻氏は受講生の体の余計な動きが気になったようだ(右手と同じことを左手でする必要はない)。手を使わずに指揮してみる、あるいは背中で指揮するといった指導もあった。これは沼尻氏も実際にやってみて、客席から喝采を浴びた。また、歌い手にきっかけを指示するのが遅いという指摘は随所であった。 結局、指揮の技術も楽器の演奏同様、細かなノウハウの集積で成り立っているのだが、楽器の演奏は、ヒト対モノ(楽器)の関係であるのに対し、指揮はヒト対ヒトの集団の関係である。楽器と違ってオーケストラが自律的に判断して演奏することがある。沼尻氏がある受講者に、「今のは10年ほど関係を築いてきたオーケストラに対する振り方だね」と指摘する場面があったが、指揮者とオーケストラの関係は非常に個別的なので、指揮はこうすべきという一般論でなかなか片付かない。こうしたことは関係者にとっては自明のことなのかもしれないが、あらためて具体の曲に即して目の前で色々な場合が示されると、受講者だけでなく演奏をしているオーケストラや歌手にとっても(何度も、何度も同じ個所をやり直すのは迷惑なことだったと思うが)、改めて演奏を自覚的に考える機会になったのではなかろうか。オペラはともかく大集団による創造なので、相互理解が欠かせない。また、これは聴衆にとっても非常に有意義な機会になるはずである。これを見て、聴いてから公演に臨むなら、オペラの見方、聴き方も大分変ってくるに違いない。演奏された曲に対する理解も深まる。努力をすれば報われるというのは、演奏者も聴衆も同じだろう。そして、沼尻氏は、コンサートマスターや歌手たちにもコメントや感想を求めながら、客席の聴講者にも判りやすく説明しており、このセミナーが指揮者と同時に観客の育成をも目指していることが判る。大スクリーンの設置も受講者だけでなく聴講者のためでもあろう。平日の昼間(最初の2日間は13時から17時、最終日は11時から17時)の開催であるが、夏休み期間でもあり、今後続ければ人気を呼ぶのではなかろうか。聴講者は3日間で延べ500人。何人か客席で指揮をしていた人がいたので、これは多分指揮を勉強している人だろう。また、スコアあるいはヴォーカルスコアを見ていた人も多数いたので、音楽を勉強している人や熱心な聴衆が多かったようだ。聴講料は3日間通しで2000円とこれもリーズナブルだ。出演者は下記のとおり。歌手の中では特にフィガロの松森治が素晴らしかった。フィガロにしては貫禄がありすぎたかもしれないが。 【講師】 沼尻竜典(びわ湖ホール芸術監督)【管弦楽】大阪交響楽団【ピアノ】 平塚洋子、湯浅加奈子【キャスト】 びわ湖ホール声楽アンサンブル(*はソロ登録メンバー)伯爵:迎肇聡* 伯爵夫人:岩川亮子 スザンナ:松下美奈子* フィガロ:松森治* ケルビーノ:森季子* マルチェリーナ:本田華奈子バルトロ:林隆史 バジリオ:島影聖人 ドン・クルツィオ:古屋彰久 バルバリーナ:平尾悠 アントニオ:砂場拓也 花娘:飯嶋幸子花娘:藤村江李奈合唱:びわ湖ホール声楽アンサンブル【受講者】粟辻聡、鬼原良尚、熊倉優、榊真由、松川智哉、道端大輝(2015/8/20 井上建夫)

5. 論考紹介

「A Post-Creative City?」by Malcolm Miles,Professor of Cultural Theory of University of Plymouth,UK.

(RCCS Annual Review,2013)

  わが国においても、都市開発政策の分野で、 ここ10年来文化主導(culture-led)の都市戦略が横浜はじめ多くの主要地方都市で採用され、各地で芸術アート活動と都市開発が並行して推進されてきた現実があるが、著者は、1990年代以降のヨーロッパの現状に鑑み、「創造都市戦略は、社会的・民族的な多様性を反映した都市運動というよりも(クリエイティブ・クラスと呼ばれるニューエコノミーの担い手たちの)選別的イメージに重きをなしたものになっている。すなわち、表面はともかく、実質的に文化都市を動かすものは市民のためのリニューアルというよりも経済的・商業的な動機によるものだ。」と、一連の創造都市戦略に警鐘を鳴らしている。著者は、さらに、「文化主導の都市再開発は、結果的に、既成市街地環境の美化とリニューアルを通じてジェントリフィケーション(gentrification、高級地域化)をもたらすことが多い。」とも述べ、米国の都市社会学者リチャード・セネットの著著からの引用もまじえ、創造都市は、社会的結束というよりは社会的分断をもたらすもの、と都市社会のあり方からも疑問を投げかけている。

 創造都市の後に来る、真に市民のための都市戦略とは何か、そこに芸術文化が果たす役割とは何か、著者も課題提起で終わっているようですが、我々シュバリエ会の課題でもあると思います。

(2015/08/13 澤井、なお原論文は、http://rccsar.revues.org/506でみられます。)